岐阜サンデースクエアダンスクラブ生い立ちの頃

 藤岡

1.岐阜サンデーが発足する前

 私は昭和37年にフォークダンスを踊り初めて半年後、スクエアダンスが好きになってきていた。シングルサークルで踊るイスラエルの曲やカップルダンスもあったが、8人で踊るスクエアダンスがなぜか楽しかった。ステップが歩くだけであったし、色々体型が変化するからかもしれない。決まった踊りではあったが、コーラーが色々面白く説明してくれたからかもしれない。岐阜市内にはフォークダンスクラブがいくつかあり、私はこの中で徹明と加納のクラブへ毎週のように踊りに行っていた。ここで毎週スクエアダンスの時間があったが、曲はいつもカップルビジターの「あの町この町」とスタープラマネードの「ネリーブライ」、それに今と違いサイドが背中合わせになって始める「グランドスクエア」だけであった。レコードは今もスクエアダンスで使われているEP盤(45回転/分)のほか、現在ほとんど博物館もののSP盤(78回転/分)も使われていた。

 この頃誰かに誘われ、「木ノ本公民館でスクエアダンスがある」、と聞いて踊りに行った。10人ほどが集まり、ここではなじみの曲以外にも色々な難しい踊りが紹介され、録音テープによる踊りも行われていた。テープから流れる英語のお経のような(そう聞こえた)ものがどうやら本場のコールらしい。この会の主催者が今の田中康博、ミイ子(旧姓有水)さんであった。
 ここで2、3回踊ったあと「名古屋でスクエアダンス大会がある」、と聞いてよくわからないまま参加した。バンドの演奏(おそらく仙台の岩間さんや岡田さんのゴールデンスリッパーズと思う)で色々なスクエアダンスが踊られたが、知っている踊りはほんの一部でこの時まだ”スクエアダンスはコールを聞いて踊る”ということさえも理解しておらず、何が何だかわからないままに引っ張り回され大冷汗をかいて1日が終わった。けれどもこれでスクエアダンスがきらいにはならなかった。
 このあと木ノ本公民館で踊った曲は4人のドーシード(今のDo sa do とは全く違う動き)が入った「You are my Sunshine」「バリから来た娘」などカップルビジター形式のスクエアダンスが主であったように記憶している。ただ英語のお経のように聞こえたわけの解らないコールは、その会でも手に負えないものであったが、今思うに現在踊っている、モダンスクエアダンスであったと思う。

2.全国フォークダンス指導者講習会

 昭和38年1月、 極寒の静岡県御殿場にある国立青年の家で第六回全国フォークダンス指導者講習会が開催され、まだ駆け出しで怖いもの知らずの私も参加した。この時かなりの時間を割いてスクエアダンスの講習が行われた。九州の原田裕氏のコールによりスクエアダンスのパターコール(ハッシュ)というものの実際を始めて知った。このとき使われたホーダウンが非常に気に入り、コーラーのところまで行って覗いて見ると全て米国製のレコードらしかった。「どのようにして買うのか」を尋ねたが、講師は「岐阜ならまず浜松スクエアダンス愛好会が近い、そこに田中さんという指導者が居るのでまずそこへ行って聞きなさい」とのことであった。
 このとき同時にOscar Hemond というコーラーがLight in the Window というシンギングコールを教えてくれたが、Allemande Tharが入っていて各セットは当然ガタガタの状態であった。このとき「ビクタースクエアダンスアルバム」という、25センチLP盤が発売され、大枚1,000円をはたいて買った。当時はラーメン一杯が50円の時代であったので、貧乏学生の私にはその値段の高さがこたえた。このレコードには6曲ほどのシンギングコール、ホーダウン1曲、3曲のラウンドダンスが入っており、Oscar Hemond コールのLight in the Windowも収録されていた。
中央にOscar Hemond氏
向かってその左が原田氏

 

3.岐阜サンデーフォークダンスクラブの発足

 田中さんとは岐阜県フォークダンス連盟の事務局編集部で一緒に活動していて、「岐阜市内にスクエアダンスを主としたクラブを作る。会場は白山公民館で他クラブが例会をやってない日曜、名称が「岐阜サンデーフォークダンスクラブ」という話が出て、私もその仲間に入れてもらうことにした。田中ミイ子さん、小池さんもその創立当時のメンバーである。
 当時のプログラムはフォークダンスが半分、スクエアダンスが半分であった。スクエアダンスは「あの町この町」「ネリーブライ」「ユーアーマイサンシャイン」「バリから来た娘」のほか、コロンビアレコードからスクエアダンスEPレコード(ドーナツ盤)が数曲発売されていて「I Like Mountain Music (田中ミイ子さんの十八番)」、「Just Because」、「グローリーハレルヤ」などをよく踊った。また上記ビクターのLPアルバム(右写真)にあったカップルビジター形式の「レフトハンドレディーパスアンダー」やAllemande Tharが入っている「Light in the Window」もよく踊った。しかしWrong Way Thar が入った「Kingston Town」は難しくて踊れなかった。この頃藤岡がハッシュの真似事のようなことを始めた。Pass Thru, Bend the Line, Star Thru, Dive Thru, California Twirl, Cross Trail Thru (これは今ではアドバンス)等を組み合わせたものであったが、まだ特定パターンのサンプルを暗記してコールする程度であった。
 1年目に現在のクラブ規約が出来、年1回の総会で役員・行事・決算予算を決め、月1回の役員会で行事を企画実行する、という民主的な運営方法も確立された。最初の会長は田中ミイ子さんに決まった。なお当時会員の年齢は殆どが17〜25歳であった。

Victor LPレコード
"Listen My Call"

4.1周年記念ジャンボリー

 昭和38年、1周年記念パーティーを発足した6月に行うこととし、大きく「ジャンボリー」と名称を付けたが、他にスクエアダンスを専門に踊るクラブもなく、内容は岐阜市内や近郊フォークダンスクラブのスクエアダンスが少し出来る人を対象とした、1クラブ主催のパーティーであった。またこの当時、岐阜県フォークダンス連盟野倉理事長の指導で「バンドをやるとよい」と言われていたこともあり、バンド演奏によるスクエアダンスを行うことにした。数ヶ月前から手持ちの楽器を持ち寄り練習を開始した。楽器はギター、ウクレレ、ハーモニカ程度であったが「あの町この町(曲はGolden Slippers)」「レッドリバーバレー」の2曲であった。このパーティー全体がどうであったかはあまり記憶がないが、バンド練習の成果はなんとかうまく行ったように記憶している。写真のように田中さんがコールした。この後バンド練習は時間がとれず、立ち消えたが、どこでもハーモニカさえあれば、スクエアダンスができるのでハイキングやパーティーへ行く途中、駅のホームで踊ったこともあった。

5.浜松SDクラブの講習会・パーティーへ参加

 昭和39年浜松SDコーラーズ協会(現在の愛好会の前身)主催で講習会兼パーティーが行われると聞いて4名が出かけた。(右写真)、これは、初めての他クラブパーティー参加であった。この時初めてSwing Thru の講習があり、コーラーはCarl Sims という人だったと思う(券の表面にはカール・スィムス、吉村元宏氏の名前がある)。浜松のダンサーはすでに知っていてあまり丁寧には説明されず、説明も英語でよく理解できないまま踊ったため、どういうとき右手で回り、左手で回るのかさっぱりわからず、周囲の人に引っ張られながら終わってしまった。あとで吉村氏が説明してくれて動き方がわかったものの、今のビギナーズクラス途中の者が修了パーティーに参加したようなもので、惨憺たる状況であったし、浜松の皆さんには大変迷惑を掛けたことと思う。
 すぐ翌年1月にまた講習会が開かれ、講師はCarl Simsと九州の原田氏であったと思う。原田裕氏のコールは動作を含めユーモアたっぷりでスクエアダンスは難しかったものの、大変印象に残っている。コールは今は使われていない Grand Sashay や Daisy Chain が入っていて難しかった。残念ながらこの時はカメラを持ってなく写真はない。
 夜の懇親会では早速 田中理(故人)さんの所へ行き、米国からのレコード輸入方法について尋ねたところ、カタログの入手先、銀行・税関の手続き等、親切に教えていただけた。また「一緒に買ってあげる」というはからいもあり、2枚をお願いした。その最初の2枚が届いて初めてレコードプレーヤで聴いたときの感激は今も忘れられない。
 その後毎年クールコール・パーティーが開催され、参加した。 記憶に残っているゲストはDon Wilcocksというコーラーで、風貌は右のバッジのデザインに似ており、どすの利いた声も記憶に残っている。当時は駐留軍のクラブがあり、在日米国人コーラーのコールで踊れたのは幸せであった。

パーティー券1964.10.25

講習会の券1965.1.23/24
1968(S43)年    1969(S44)年

6.スクエアダンス教室の開講と豊橋スクエアダンスクラブとの交流

 これまでは講習会も1日だけの開催であったが、他クラブの指導者の話を聴いているとやはり本格的にモダンスクエアを踊るには15週位の長期講習が必要ということになり、全国FD指導者講習会で入手した東京 大鳥SDの会の初心者講習会テキストを参考にして実施することにした。作成したテキストは手作りのガリ版刷りであったが、40ページほどのものなった(写真1)。第1回の募集チラシを岐阜市内及び近郊のクラブにも配布したところ約60人ほどの受講者になった。第1回ということもあり、会員は指導者を含め全員が受講者名簿に名前が入っていた。指導は役員の一部が互いに勉強しながら担当した。しかし、もの珍しさに参加した人も居て、'65年4月卒業したのは約半数の30人程度であった(写真2)。コールはまだ教えてもらう機会がなく、リーディングが主であったが、これを機に自分流で簡単なサイトコールも始めていた。
 その年の9月から第2回SD教室を開講し、20名ほどが卒業した。この中に各務原あすかの奥村さんの顔がある。(写真3)
 これで外のパーティーへ行っても何とか踊れるようになり、'66年7月には豊橋SDクラブでパーティーが開催されたので、岐阜サンデーからも20名ほどが参加した。この時のゲストは東京SDクラブの和田勝氏で特に女性への人気は絶大であった。このとき耳にした氏のコールと音楽のハーモニーは今も鮮烈に記憶に残っている。コールに使われたレコードはWindsor レコードのMountain Mistであった。写真の米国人(当時駐留軍?)はDonald Willer 夫妻であるが、コールされたような記憶はないので、ダンサーとして参加されたものと思う。(写真4 岐阜サンデーの女性、写真5 岐阜サンデーの参加者、ゲストと当時豊橋SDC岩城さんも居ます)
 第3回SD教室も約20名が卒業し、この時初めて外部からのゲストとして、パーティーで知った豊橋SDクラブの戸村氏を招き、修了パーティーを開催した。(写真6)


写真1 テキスト

写真2 第1回

写真3 第2回

写真4 豊橋P

写真5 豊橋P

写真6

'02年10月アップロード、'05年4月7日 一部改訂

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